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第17回
新・風姿花伝
― 人は何故植物を枯らし続けるのか −
― 鉢花・山野草を枯らさないための秘伝公開 ―
【プロローグ】
2.盆栽との衝撃的出会い(小学5年生の秋)

 しかしこんな私でも、1つだけ自慢の出来る仕事…というより、生涯の道楽というものがあった。それは決して金儲けにつながらなかったけれど、延延と続いた植物栽培の嗜みである。この嗜みはまだ東京に住んでいた小学5年生の時に、 突如として私に芽生えた。いや、芽生えたという言葉はあまりに弱々しすぎる。あれは芽生えでなく爆発であった。自分でも自分の気持、精神状態が何が何やらわからなくなってしまったのだが、近くの明治神宮の秋の大祭に、 悪ガキグループで遊びに行った時、そこのズラリと参道に並んだ露天商の一つ、植木屋テントで、幾鉢も並べられた棚の上の一鉢の「錦松」の盆栽を見た途端、突如として私はそれがほしくてほしくてたまらなくなってしまったのだ。 当時小学校5年だから、年はまだ満の十一歳の時である。何故たかが十一歳の餓鬼が、生まれて初めてのぞいた盆栽の棚で、ほかに赤や黄の目を惹く盆栽もあっただろうに、ガ・ガーンという衝撃とともに、 その錦松にピタと視線を釘付けされ、相手が何者であるのか、どのように持ち続ければいいのかなぞということは全く考えもせず、「ほしい、あれがほしい」と、ただ早熟な世之助が渋皮のむけた年増に発情したごとく、何が何でも自分のものとしたくなってしまったのである。

 それからのことはよく覚えていない。かすかに耳の底に、一人のおばちゃんの「まあこの子ったら、なんて買物がうまいんだろう」という冷やかしの言葉が薄っすら残っているだけであるが、私は露天のおっさんを相手に 二・三十分は八千円という値の付いたその錦松を、五千円まで値下げさせるために、ありとあらゆる「語キャブラリー」を駆使しまくったのである。それまで悪ガキとしては地元の本町商店街でも知らぬ者はない戦後間もなくの悪ガキではあったが、 私が錦松を五千円で落とすまでには、露天には、つまり私の背後には、相当数の見物人が重なるように立ち止まって、私とおっさんとのやり取りを、ただただ面白おかしく見物していた。

 五千円(これは私の記憶違いだと思う。私が十一歳の時は昭和三十一年だったので、五千円は相当な金額である。いくら値切ったとはいえ、とても子供の用意できる金ではない。五百円だったのかも…)で手を打つや私は歩いて三十分の距離を十分で家に戻り、 どうしたのか全く覚えていないのだが、五千円だか五百円だかの金をまとめ、すっとんで露天へと立ち戻った。露天のおやじは大騒ぎしたものの、とんだヒヤカシ餓鬼めがと思っていただろうが、それがほどなく真赤な顔をして戻ってきたのである。多分相当に驚いたに違いない。

 かくして私が人生で最初に手にした盆栽は、それが黒松から派生した一種の風土病に冒されたものであるなんてことは全く知らない錦松だったのである。さらに知らなかったのは錦松のことだけではない。そもそも盆栽とは何ぞやなんてことも、 全く知るよしもない私は、ただくる日もくる日も、水だけはやっていたのだが、それが十日たち、二十日たつと、悲しいかな錦松の葉はだんだんと黄色っぽくなっていき、ついには秋の落葉松も驚くほど真っ黄色になって、私は初めて植物の死というものを身をもって体験することになった。 世之助は女を捨てるのが役どころだが、私の方は何がなんだか分らずに血道を上げた錦松に、じつにあっさりと見捨てられてしまったのだ。私は泣く泣く枯れた松を鉢から引き抜いた。それはなかなか鉢から抜けなかったが、いざ抜いた松の根を見て私は驚愕した。
十一歳の身で世間様に驚愕するということはさほどないことと思うが、鉢から抜いたその錦松の根は、なんと一枚の板に釘と針金で打ち付けられ、結わえ付けられていたのである!

 それ以来私はスッパリと盆栽とは手を切った。十一歳の時だから決して深入りはしなかった方だろう。それっきりすぐに錦松のことなんか完全に私の頭から去ってしまい、中学校の三年間は毎年落第の危機に見舞われながら、もっぱら陸上競技にのめり込んだ。

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